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[原创] 小愤青议钓鱼岛

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现在的钓鱼岛、南沙群岛好象一九三一年“九一八事变”时的中国东北!

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引用:
原帖由 shouwangqi 于 2010-9-9 07:17 发表
钓鱼岛事件是国内外势力调动各自国内愤青的一个题材。
大家不要上当。
淡定。
以后一看到“钓鱼岛”三个字,记住,说的人一定是别有用心的。
我在2010年多个帖子里都说过,今年事情会很多,但全部会在11月归零, ...
啥事往钱上想+1~很实在的一句话~我很喜欢~

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打蛇打七寸,那么对付日本人什么办法最有用呢?
我们大家都知道,日本对中国的出口是其国民经济的重要部分,那么抵制日货对日本人的打击应该是很大的。

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为大家补充点资料
    我们所说的钓鱼岛应该是个群岛。由钓鱼岛、黄尾屿、赤尾屿、南小岛、北小岛和3块小岛礁即大北小岛、大南小岛、飞濑岛等8个无人岛礁组成,分散于北纬25°40′~26°、东经123°~124°34′之间,总面积约6.344平方公里,专属海域算下来有17万平方公里。这些岛屿在地质上和花瓶屿、棉花屿、彭佳屿一起,都是台湾北部近海的观音山、大屯山等海岸山脉延伸入海后的突出部分,为台湾岛的附属岛屿。台湾方面将钓鱼岛归于省宜兰县头城镇大溪里管辖。在地理位置上,在台湾基隆港东偏北约186公里(100海里)处。浙江温州港东南约356公里(192海里)处、大陆福建福州长乐国际机场东偏南约385公里(208海里)处。日本冲绳那霸空港西偏南约417公里(225海里)处。
  主岛钓鱼岛呈番薯形,东西长约3.5公里,南北宽约1.5公里,面积约4.3平方公里。地势北部较平坦,南部陡峭,中央山脉横贯东西;最高山峰海拔362米,位于中部;其它尚有高程320米、258米、242米的山峰若干,及4条主要溪流。位于东海大陆架上。而日本冲绳琉球群岛则是大陆架之外的火山岛,并且琉球群岛处于东海大陆架上。钓鱼岛其实是台湾大屯山之延伸,故依据1960年代生效的大陆架公约观点,钓鱼台理应为台湾岛的一部分。
  钓鱼诸岛及其附近海域,不仅蕴藏有大量石油资源,在其他方面也有巨大的经济价值。这里是我国东海靖鱼场。太平洋黑潮流经这里,带来了大批鱼群,所以我国浙江、福建和台湾等地的渔民经常到这一带捕鱼。在钓鱼岛与东南方的北小岛、南小岛之间,有一条宽达l000多米的“蛇岛海峡”,风平浪静,成为渔民的天然避风港湾。在这个海峡港湾中,还盛产飞花鱼,台湾省基隆、苏澳两地渔民,常靠此渔区生存。
    钓鱼岛面积居八小岛之冠,约4.3平方公里,岛上基岩裸露,尖峰突起,土层基薄,缺乏淡水。山茶、棕榈、马齿苋随处可见,仙人掌遍地丛生。这些植物显然为了适应海上强风的自然环境,都长得又矮又粗壮,其中很多便是名贵药材。有一种叫海芙蓉的海草,生长在沿岸的岩石缝中,是防治风湿症和高血压的良药。我国沿海采药者有不少人祖辈在钓鱼诸岛采摘中草药。
    黄尾屿在钓鱼岛东北,陡岩峭壁,屹立于海中,成千上万的海鸟栖居在这里,每年4-5月间,成群的海鸟几乎遮住了黄昆屿的天空。海鸟在黄尾屿产卵,数量极为惊人,登岸捡拾鸟蛋者,俯拾即得。海鸟因甚少与人接近,人亦少在此狩猎,故鸟不怕人,捕捉极为容易。黄尾屿因鸟多,又称为“鸟岛”。钓鱼岛一带是太平洋的海鸟栖身所,可是海鸟好似有两个不同的家族,只分别栖身在 黄尾屿和北小岛上,而居中的钓鱼岛仅是两岛之间的停留站。白天两岛的海鸟各自离岛觅食,疲倦时便在钓鱼岛上休息,一到傍晚,便各自飞返自己栖身的黄尾屿与北小岛。黄尾屿除鸟多外,还有丰富的海产。这里的龙虾特别肥大,最大的甚至有鸭子那么大。岛上另一著名的生物是蜈蚣,它们身长约20-30厘米,有红色、黑色两种,都生长在阴暗的石缝中,在阳光下行走时,闪闪发光。
     北小岛和南小岛孤悬于海中,与钓鱼岛组成一个天然的“蛇岛海峡”。就地形观察,它们原为一个岛屿,后  钓鱼岛俯视因断裂活动,地堑陷落,一岛分裂为二。虽然同源,但它们却各有特色。北小岛以鸟多著名,南小岛则以蛇多著称,因为蛇多,又称为蛇岛。从远处海面望去,平坦的沙滩,绵延100余米,与另一处高达300来的陡峭山坡相接,组成一个气势雄伟、景色壮丽、山海相映的地貌景观。该岛屿目前无人居住。
    南小岛蛇多,简直遍布全岛,最大的有碗口粗,最小的则如小手指头细。蛇的颜色一 般以黄色、黑色居多,但都是无毒的。南小岛也许由于蛇太多,鸟类竟然绝迹。此外,钓鱼诸岛由于风力太大,又缺乏淡水,因而没有蚊虫。
    赤尾屿是钓鱼岛群岛最东端的岛屿。其地理位置位于东经124°34′09〞~124°33′50〞度,北纬25°53′54〞~25°54′06〞度,面积为0.0609平方公里。亦称赤屿、赤坎屿、赤尾山、赤尾岛、赤尾礁。
     大北小岛,一般也称作北小岛是台湾岛附属岛屿东北诸岛的东段岛链钓鱼台列岛的组成部分。也称鸟岛。面积0.30平方公里,目前为无人居住的岛屿。1996年7月14日,日本好战人士在北小岛设置了一座灯塔。
     濑岛是钓鱼岛列岛8个小岛之一,面积为0.0008平方公里。


[ 本帖最后由 ambershen 于 2010-9-9 10:19 编辑 ]

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另外也给出在日文维基上日方的资料,大家都可以对照下,汉字非常多,大家基本可以看懂
主な島と岩礁は以下のとおり。(主岛及下属各岛礁)

魚釣島(うおつりじま、中国名:釣魚台、釣魚嶼など): 東西に約3.5 km、南北に約2 kmの島で面積は 3.82 km²。島南側に海抜 200 - 250 mの急峻な崖が東西に横断している。最高部は標高362 m。
久場島(くばじま、中国名:黄尾嶼、黄麻嶼、黄毛山など): 面積は 0.91 km²。
大正島(たいしょうじま、中国名:赤尾嶼、赤坎嶼など): 面積は 0.06 km²。
北小島(きたこじま、中国名:北小島、薛坡蘭、黄茅嶼など): 面積は 0.31 km²。
南小島(みなみこじま、中国名:南小島、薛坡蘭、黄茅嶼など): 面積は 0.40 km²。
沖の北岩(おきのきたいわ、中国名:(北岩)正式名なし)
沖の南岩(おきのみなみいわ、中国名:(南岩)正式名なし)
飛瀬(とびせ、中国名:(飛礁岩)正式名なし)
いずれも無人島である。(以上所有岛礁均为无人岛)

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以下是日本方面的说法,日文的维基还是比较中立的,把各方的观点都阐述出来了,可以看出,日本所有的主张的合法性基本源于甲午战争,台湾给了日本,然后钓鱼岛划给了琉球群岛。
尖閣諸島を巡る日中間の争点は以下の通りである。

1.誰が最初に発見し、実効支配をしたか
2.1895年1月14日の日本による尖閣諸島編入の有効性
3.第二次世界大戦の戦後処理の妥当性
以下、それぞれについて日中両国の主張を整理してみる(ただし、各国政府の主張を一言一句正確に記述したものでないことに留意されたい)。

誰が最初に発見し、実効支配をしたか [編集]
国際法上、発見は未成熟権原とされ、領域権原取得のための優先的権利の取得にすぎないとされている(パルマス島の判例)。また、東グリーンランドの裁判において「定住に向かない、無人の地では、他国が優越する主張をしない限り微かな実効支配でも有効」と判示され、近年の無人島の判例(ライタン・シパダン島等)でも支持されている。また、マンキエ・エクレオの判例において、中世の諸事情に基づく間接的推定は実効支配と認定されず、当該地の課税や裁判の記録等の司法、行政、立法の権限を行使した直接的証拠が必要とされた。

中国側の主張
1403年(明代)に著された『順風相送』という書物に釣魚台の文字がある。 また1534年の冊封使・陳侃(チン・カン)の報告書である『使琉球録』にも「釣魚台を目印に航行した」との記述がある。 これらのことから、明の時代にすでに中国人が釣魚台(尖閣諸島)の存在を知っていたのは明らかである。
1785年に日本の学者・林子平(はやし しへい)によって著された『三国通覧図説』という書物に付属している『琉球三省其三十六島之図』という地図で、釣魚台列島が中国大陸と同じ色で彩色されている。これは日本においても釣魚台列島が中国の領土と認識されていた証である。
これらを総合的に判断するなら、日本の主張する先占は無効である。
日本側の主張
『琉球三省其三十六島之図』において尖閣諸島が中国大陸と同じ色で彩色されているのは事実である。しかし、この地図で尖閣諸島と同じく中国大陸と同じ色で彩色されている花瓶嶼は今日台湾の領土となっている。その台湾は『琉球三省其三十六島之図』においては大陸とは別の色で彩色されている。したがって、この地図の彩色と領土とは必ずしも関係しない。
1871年に発生した牡丹社事件の事後処理のために清朝政府を訪れた日本の外務卿・副島種臣に対して清朝政府は責任を負わぬと言明している。尖閣諸島よりも大きくかつまた大陸に近い台湾ですら実効支配している認識がなかったのであるから、尖閣諸島をどのように認識していたかは明白。
古文書に記載が見られるとしても実効支配の痕跡が見られない以上、その島は無主地と判断するのが妥当。
1895年の日本による尖閣諸島編入の有効性 [編集]
国際法で言う先占の法理をどう解釈し、認めていくかがこの問題の焦点である。

つまり、古文書に名前のある島は自動的に領土としたことになるのか否かの問題である。中国側は領土になると主張し、日本側は実効支配していなければ無主地であるとしている。無主地であるならば先占の法理を適用し得るし、日本の1895年1月の編入はその手順に則っているのだから有効である、というのが日本側の主張である。
なお、国際司法裁判所等の判例においては、不明瞭な記録による間接的推定は認められず、課税や裁判記録といった行政、司法、立法の権限を行使した疑義のない実効支配の直接的証拠が要求されている。[5][6]

中国側の主張
多くの文献に明らかなように少なくとも明の時代から中国では知られていたのであり、台湾の漁民が漁労に従事していたのだから無主地などでなく、よって日本の先占は無効。
日本政府は沖縄県に対して内々の調査を命じている。これは中国領と承知していたからに他ならない。
甲午中日戦争(日本で言うところの日清戦争)に勝利した勢いで、その戦後処理を取り決めた馬関条約(日本で言うところの下関条約1895年5月10日公布)にすらよらないで、掠め取ったものである。したがって、釣魚台列島は中国に返されるべきである。
日本側の主張
早くから中国が尖閣諸島の存在を知っていたことは間違いない。しかし永続的に実効支配し続けようという国家意思が見られない島については、無主地と判断するのが国際法上妥当である。
尖閣諸島は下関条約によって割譲された地域には含まれない。
中国側は内々の調査を命じていることを中国領と承知していたからに他ならないというが、それは違う。無用な衝突を避けるためにしたまでのこと。第一、公然と調査しなければならない義務はない。
第二次世界大戦の戦後処理の妥当性 [編集]
第二次世界大戦の戦後処理についても対立している。現在事実上台湾を統治する中華民国政府も中華人民共和国も、連合国と日本との戦争状態を終結させた日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の締結に加わっていない(中華民国とはその後、日華平和条約を締結)。中華人民共和国政府はこの点を捉えて、この条約の合法性と有効性を承認しないという立場を取っている。

一方、日本政府は第二次世界大戦の戦後処理は妥当なものであり、尖閣諸島は1895年1月14日の編入以来一貫して日本が統治し続けてきた固有の領土であって、このことは国際社会からも認められている、としている。

中国側の主張
1943年のカイロ宣言では、日本は中国東北部(満州)や台湾、澎湖列島などを含める土地を返還すると規定している。 釣魚台(尖閣諸島)はそれらの地域に含まれているのだから、返還されるべきである。
中華人民共和国政府は日本国との平和条約に参加していない。本当の平和条約とは言えないので、この平和条約の合法性と有効性を承認できない。
日本側の主張
1895年1月14日の編入以来、南西諸島の一部を構成するものであり、下関条約によって割譲された台湾および澎湖諸島には含まれない。 したがってサン・フランシスコ平和条約第2条に基づき日本が放棄した領土のうちには含まれない。
中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し何等異議を唱えなかったことからも明らか。
これより先に出されていた「連合国軍最高司令官総司令部覚書」667号(SCAPIN667 (Supreme Command for Allied Powers Instruction Note No.677, January 29,1946))「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」に同諸島が含まれている事実に対しても何等異議を唱えなかった事実がある。

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以下是中文维基上的,大家可以对照看看
日本将周边海域共划分为11个管区,并由日本海上保安厅管辖。且将钓鱼岛隶属于第11管区由日本掌握实际控制权,不过日方无法进行钻油工程。同时台湾渔民视钓鱼岛海域为传统渔场。

以下论点是部分人士认为钓鱼岛应归台湾或中国的证据:
1.最早发现钓鱼岛的是1372年明洪武时期遣琉球国使臣杨载,表示当时中国人是钓鱼岛最原始的发现者,这比日本人于1884年首次登陆钓鱼岛的时间早了500年。
2.慈禧太后将钓鱼岛赐封给盛宣怀的谕旨。
此谕旨已被证明不符合清政府文件格式、极可能是伪造文书[20]。
3.钓鱼岛在地质上是属于台湾大陆棚的延伸,并与冲绳群岛间有海沟相隔,并在1683年即被中国人称为“中外之界”。
4.钓鱼岛海域是台湾渔民的传统渔场。
以下论点是日本提出钓鱼岛属于日本的依据:
1.日本从1885年开始调查钓鱼岛,之后宣称根据国际法为无主土地,1895年1月在钓鱼岛设立国标,列入冲绳县所辖。
2.从1895年到1971年75年间,清朝、中华民国和中华人民共和国三个政权都没有在官方场合对日本对钓鱼岛行使主权提出异议。
对此需要了解以下事实:
1.日本在1895年以前的地图中,多次将钓鱼岛群岛标示为中国领土,并采用中国对各个岛屿的命名。
2.中华民国迁台后到1972年以前,官方地图只有尖阁群岛(钓鱼岛日本名称)的存在,而且将其划归日本;而后中华民国政府涂改官方地图以争取钓鱼岛主权(但是还是留下涂改痕迹)[21]。
3.1945年,二次世界大战结束后冲绳由联合国托管,由美国实施治权,钓鱼岛仍置于美国治理之冲绳政府辖下。1971年之前中华人民共和国政府固然没有提出抗议,时任联合国安全理事会常任理事国的中华民国也没有对联合国提出异议。
4.国际法方面,在岛屿主权争议上具有最高权威性的(one of the most highly influential)Palmas岛判例揭示了三条重要原则:第一,邻接并不构成国际法上之准据。第二,先发现只能算是未完成的准据(inchoate title)。第三,如果另一主权国先行实施持续且实效之主权支配,而发现国并未提出抗议,则实效支配国之主张优先于单纯发现国。
5.大陆架公约是依据领土来定义海床与底土资源开发权利,并非作为领土所有权之依据[22] 。此外中华人民共和国并未参与签署1964年生效的大陆架公约。
6.很多人士认为清朝时期马关条约的签订即一同割让了台湾附属岛屿钓鱼岛及其附属岛屿,日本占领钓鱼岛的时间与马关条约的签订仅隔三个月。
7.1920年,中华民国驻长崎领事冯冕致赠石垣村民之感谢状,将钓鱼岛及其附属岛屿视为“八重山郡尖阁列岛”,属于冲绳县。
8.中华人民共和国成立后,到1972年以前,钓鱼岛被美国占领而非日本,日本并未对钓鱼岛行使主权。在1971年美国要将冲绳群岛归还给日本前夕,中华人民共和国和中华民国都立即对钓鱼岛及其附属岛屿宣示了主权。
中国官方与民间多指出“1944年东京裁判所判决尖阁列屿隶属当时处于日本统治下的台北州”。该说法最早见于‘当代中国研究,1996年第3期,李洪山,中日钓鱼列岛争端及搁置浅析’:“但即使在日据时代,钓鱼岛同台湾的隶属关系也曾被日本政府确认。1944年,日本东京法院在裁决台北州与冲绳县有关尖阁群岛(钓鱼列岛)渔场的争讼时,判定这些岛屿归台北州管辖,渔民前往这些岛屿捕鱼,需有台北州的许可证。”此文引用1971年基隆市渔会理事长谢石角先生根据记忆之证词。郭明山经初步查阅,认为“似无”[23]该判决的存在。郭明山先生并根据谢石角证词调查当时《台湾日日新报》,其说法大致上与李洪山说法有以下出入:
1.事件发生在1939年八月,位于东经123至124度、北纬24至26度间,此一范围包含钓鱼岛(25°46'N 123°31'E)、与那国岛和西表岛之间海域。
2.台湾渔船在该海域作业时遭到冲绳警戒船暴力干涉。受害渔船于同年十月之后提出“刑事诉讼”与求偿两万日圆。
3.次年1940年四月,经日本中央政府农林、拓务两省调停,冲绳县与台湾总督府双方协商,认为新渔场系在公海上(当时国际常识之领海范围为三海浬),应由台湾冲绳双方共同开采该地区之资源。

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以下是各方官方立场,最值得玩味的是美国的立场,大家可以好好看看
台湾
1951年,台湾省文献委员会编辑《台湾省通志稿》,记载台湾省最北端为彭佳屿,所附地图并无包含钓鱼岛。
1958年,正中书局发行《台湾地理》作为国中补助教材,内容记载“台湾省北端是基隆北方的彭佳屿,得北纬二十五度三十七分五十三秒……东端是东北海中的棉花屿,得东经一百二十二度六分二十五秒”(钓鱼岛及其附属岛屿散布在北纬25度40分到26度及东经123度到124度34分之间)。
1960年,中华民国内政部制作《台湾省5市16县详图》,明记台湾附属岛屿七十六座,分布范围从恒春七星岩到基隆彭佳屿,未记载钓鱼岛。
1962年台湾初中地理课本45页中琉球群岛位置为北纬24度到30度 东经122度半到131度之间 明确包含钓鱼岛(东经123.30度至124.35度,北纬25.45 度至26度)
1965年10月,中华民国国防研究院出版《世界地图集第1册东亚诸国》,将钓鱼岛列于日本领土,并标示为“尖阁诸岛”。
1965年10月,由台湾国防研究院与中国地理学研究所合编出版的世界地图集第一册东亚诸国中,将钓鱼岛及其附属岛屿画为日本领土写成尖阁群岛。但在随后的1972年之第四版,即改用钓鱼岛及其附属岛屿此名。
1965年11月,台湾省政府编印之“台湾省地方自治志要”将台湾省极北界定为彭佳屿。
1968年10月印行的“中华民国年鉴”以台湾极北为彭佳屿,极东为绵花屿。
1970年1月,中华民国官方教科书《国民中学地理教科书第四册》(初版),将钓鱼岛列于日本领土,并以日本名称标示“尖阁诸岛”。
总而言之,1970以前,国立编译馆编印之国民中学地理教科书将钓鱼岛划入日本领土,名称也使用日方使用的尖阁群岛。

中华民国1971年6月11日外交部表明声明而开始主张钓鱼岛为中华民国的领土,当时的政府碍于中美关系,却也只是发表声明,并没有派舰护土等实质上的行动;到了李登辉时代以后的中华民国政府对于钓鱼岛的主权行为可以说是很接近“基于民间部份保钓势力的压力”的不甘愿行为。

但早期为避免与日本产生冲突,而把问题淡化甚至回避,以免破坏台湾和日本的友好关系,因此对于钓鱼岛主权的宣张,一直停留在民间运动的形式,称为保钓运动。2003年,宜兰县政府派船秘密前往钓鱼岛水域侦察测绘。2004年4月15日,根据中华民国政府内政部的指示,宜兰县依据前一年所绘制的测量图,正式将钓鱼岛及其附近的岛屿划归宜兰县管辖,并指过去为著台日友好而没有把有关水域登刊于地图上。

自2005年起,日本在钓鱼岛海域扣押台湾渔船的事件日益频繁,双方一度爆发台湾渔船包围日本巡逻艇的事件,台湾渔民积怨日深,舆论也对政府施加压力。2005年6月22日,立法院长王金平、国防部长李杰偕同十五位立法委员 (国会议员) ,搭乘济阳级军舰巡弋钓鱼岛海域宣示主权,此为中华民国首度以实际行为表达官方立场。

一、钓鱼岛及其附属岛屿,包括五个小岛及几处岩礁,因缺淡水,不宜定居,其中最大岛屿被称为“无人岛”,台湾北部渔民常年以此岛及此岛附近的海面维生。原为台湾附属岛屿,但自联合国亚洲远东经济委员会报告钓鱼岛及其附属岛屿附近可能蕴藏丰富之石油后,日本乃转为采取积极行动,利用被其侵占之琉球群岛对钓鱼岛及其附属岛屿主权提出主张。

二、目前中华民国政府行政院对钓鱼岛及其附属岛屿问题之处理方式,原则上采外交解决。近因民间保钓活动兴起,为有效处理钓鱼岛主权争议,已责成外交部邀集相关部会,成立专案小组专责处理,以免损及主权或造成无谓牺牲。专案小组议决处理钓鱼岛事务原则如下: (一)钓鱼岛及其附属岛屿主权属中华民国所有。 (二)与日方采和平、理性外交手段处理。 (三)优先考虑维护渔民权益谈判。

三、台北驻日经济文化办事处代表许世楷(大使级),2004年7月6日在东京都会见记者,就钓鱼岛及其附属岛屿说:“距离冲绳和台湾都很近,不能轻易地说是谁的领土。”

许世楷代表还提出,有关各国“应通过协商解决”领有权问题。

2004年,位于台湾东北部的宜兰县作为行政管辖权对其进行土地登记,日本方面提出了取消这一登记的要求。

中华民国政府与政界人士针对钓鱼岛及其附属岛屿问题的立场经历过变迁和调整。在本届政府(2000-2008)年前,中华民国在日美琉球归还条约签订后曾数次对日本人士登陆该群岛建立建物表示抗议。1972年时有两千余台湾留美学生曾在联合国总部外示威反对美日协定,是“保钓”运动的起源。之后的抗议发表于1979年,1989年与1996年。1996年日本根据对钓鱼岛的管辖扩大排他性经济海域(EEZ),中华民国政府旋即于6月21日正式向日本提出“严正抗议”(中华人民共和国于6月23日亦发表抗议)。

由于台海两岸政府的紧张关系以及台湾内部政治生态的变化,本届中华民国政府任期开始后,对钓鱼岛及其附属岛屿的政策转向缓和。

2002年9月中旬,已卸任之前总统李登辉在接受日本媒体访问时声称“钓鱼岛列岛乃日本固有的领土,所有权应属于日本冲绳县”。10月20日,李氏又重申其言论,并说台湾对于钓鱼岛列岛“只有渔业权,并没有领土权”。这项谈话遭到国内保钓人士的批评。

为此,当时的行政院长游锡堃在10月22日立法院答询时表示,钓鱼岛主权及领土属于中华民国,行政管辖权在宜兰县 (头城镇大溪里)。在国内舆论的压力之下,政府拉高层级,时任总统陈水扁于隔年1月12日公开表示,“纵使地方(钓鱼岛)不大,也是我们的一部分”。

2008年6月10日凌晨,台北县瑞芳籍的“联合号”渔船,在钓鱼岛南方六浬处,遭日本海上保安厅船舰撞沉,并留置台湾船员。6月13日,行政院长刘兆玄表示:“我想所谓的两国之间的争议,首先需藉外交交涉以及透过法律途径来解决,要用开战(解决),这是到最后、最后的阶段。”他强调,所谓不惜一战是最后不得已的手段,但并不排除。而外交部也采取积极态度处理,外交部长欧鸿炼除了召见日本驻台代表池田维当面表达严正抗议外,也表示若日方再没有回应(放人、赔偿和道歉),不排除采取更强硬的外交手段 (召回驻日代表许世楷)。另外,立法院以国防委员会为主等多名立法委员要求国防部派出基隆级军舰让立委及国防相关单位登舰巡戈钓鱼岛海域“宣示主权”。

中华民国总统府于事件发生后也发表四点声明,内容全文如下:

一、钓鱼岛及其附属岛屿是中华民国的领土,地理上是台湾的附属岛屿,属于宜兰县头城镇大溪里。

二、我们坚持维护钓鱼岛主权的决心从未改变,也绝不改变。此一立场,外交部十分了解并遵行。

三、对于日本政府船舰在我国的领海,撞沉我国的渔船,扣留我国的船长,我们要提出严正抗议,并要求日本立即释回船长及提出赔偿,外交部已依据上述原则与日方继续交涉中。

四、我们也要求海巡署立即强化编装,提升维护主权与捍卫渔权的功能。

[编辑]  中华人民共和国
1953年1月8日中国共产党党中央机关报《人民日报》刊载文章“琉球群岛人民反对美国占领的斗争”。文中以日本名称“尖阁诸岛”称呼该岛,并介绍其为琉球群岛之一部分。
1959年商务印书馆出版、新华书店北京发行所发行《台湾地理》(作者吴壮达):“全区岛屿的分布,最东,是本岛东北的棉花屿,……最北,是本岛东北的彭佳屿,地距瑞芳镇的鼻头角约五十六公里,与琉球群岛内侧的尖阁诸岛遥对”。
1961年中华书局出版由历史学者向达著作的《两种海道针经》,其中之“钓鱼屿”项目:“钓鱼屿为自台湾基隆至琉球途中尖阁群岛之一岛,今名鱼钓岛,亦名钓鱼岛”。
1971年12月30日中华人民共和国外交部声明对钓鱼岛拥有主权。1979年邓小平提出“搁置争议,共同开发”[5],之后成为中华人民共和国在钓鱼岛问题上的基本态度。
以下是中华人民共和国对钓鱼岛及其附属岛屿的基本见解:

明朝初期(1372年),杨载发现钓鱼岛群岛;
1582年,明朝将钓鱼岛归入明朝版图,隶属福建。
日本史家也有承认钓鱼群岛是中国领土的,如18世纪时林子平的《三国通览图说》。
清朝康熙册封使徐葆光的《中山传信录》图中,采用中国的“钓鱼岛”为岛名,并将钓鱼岛和中国福建、浙江用同一淡红颜色标出。琉球群岛用黄褐色标出。
日本在1879年侵占琉球群岛,但在当时的日本刊物《琉球志》地图中,并没有将钓鱼岛列岛列入日本领土。清朝大臣李鸿章与日本就琉球归属谈判时,中日双方仍确认的琉球36岛中并不包括钓鱼岛等岛屿。
1884年古贺辰四郎声称“发现”钓鱼岛时,已经晚于杨载500多年。
1992年2月25日,中国全国人大通过《领海法》,正式将钓鱼岛岛列入中国领海范围,日本政府提出抗议。
针对1996年9月26日香港的陈毓祥于钓鱼岛海域溺毙身亡一事,中国外交部未进行强力官方交涉。
针对2008年6月10日凌晨台湾渔船遭日舰蓄意撞沉一事,中国外交部于当日发言表示不满。
2008年12月8日中国海监总队“海监46”号 、“海监51”号编队进入钓鱼岛12海里实施巡航。
[编辑]  日本
日本政府也认同中国在相当早期即知道钓鱼岛诸岛之存在,然而明朝清朝均未对该岛主张过任何领有权,也没有任何古文书可以提出中国对钓鱼岛实效支配的佐证。对于没有永续实效支配之国家意识的岛屿判断为无主地,在国际法上是妥当的。
1895年,日本将该列屿划入领土前之官方文献:

1702年,日本幕府绘制的《元禄国绘图》、《元禄日本总图》、《皇国沿海里程全图》、《大日本六十余州细图》四图中的琉球国部分,不含钓鱼台。
1719年,幕府大臣新井白石撰《南岛志》记载的琉球三十六岛名以及所附琉球国图,均不含钓鱼台。
1810年,山田联绘《地球舆地全图》,以中国命名标示钓鱼台、黄尾屿、赤尾屿,而且这些岛屿和中国颜色一致。
1838年,日本幕府绘制的《天保国绘图》中的琉球国部分,不含钓鱼台。
1867年,开成所以伊能忠敬绘图刊成《官板实测日本地图》所附《琉球诸岛绘图》,不含钓鱼台。
1885年,日本政府对该岛进行调查,之后确认该地不仅为一无人岛, 而且没有受清国管治过的痕迹。[6]
1895年之后

1895年,1月21日,内阁决议将钓鱼岛列为日本领土,并在岛上建立国标。日本政府主张钓鱼岛在《马关条约》签定前三个月前已属于日本,不在《马关条约》所定割让范围之内。
1897年(明治三十年),敕令第百六十九号关于叶烟草专卖法施行区域,鱼钓岛属于冲绳县辖下诸岛。
1900年,日本政府参考英国海军对该列屿之称呼“Pinnacle Islands”而将岛屿命名为“尖阁列岛”,取代中国名称“钓鱼屿”以及琉球名称“ユクン・クバジマ”。
1919年,日本冲绳县发行‘冲绳县统计书’,尖阁诸岛属冲绳县八重山郡管辖。同年,台北厅发行的‘台北厅志’并未包含钓鱼岛。
第二次世界大战后, 此岛被作为日本冲绳县的一部分而被美国占领。美国和在美国占领下的南西诸岛/琉球列岛政府明确的对该岛行使了治权,美国海军视久场岛/黄尾屿和大正岛/赤尾屿为机动区。1972年该岛被美国以冲绳县的一部分转交给日本政府管理。
18世纪日本学者林子平的《三国通览图说》所附之《琉球三省其三十六岛之图》虽将钓鱼岛列岛与中国大陆画为同色,但该图中与大陆同色的花瓶屿今日则是属于台湾领土,而台湾在该图中的颜色与中国又不相同。因此该地图所用颜色并无法用以证明领土关系。
以下是日本外务省关于尖阁群岛领有权的基本见解:[7]
“自一八八五年之后,日本政府透过冲绳县当局等各种途径再三前往尖阁群岛进行了实地调查,慎重确认该地不仅为一无人岛, 而且没有受清国管治过的痕迹之后,于一八九五年一月十四日,通过了在当地建立标识桩的内阁会议决定,正式划入我国领土版图之内。

自此以后历史上,尖阁群岛一贯构成我国领土南西群岛的一部份,并且不包含在,根据一八九五年五月生效的马关条约第二条由清国割让给我国的台湾及澎湖列岛之内。

因此,在旧金山和平条约中,我国根据该条约的第二条所放弃的领土之内并不包括尖阁群岛;该群岛是根据该条约第三条,作为南西群岛的一部份交由美国管治;并被包括在于一九七一年六月十七日,根据日本与美国之间签署的有关琉球群岛及大东群岛的协定(归还冲绳协定),将管治权归还于我国的地域之内。以上的事实,足以明确地显示尖阁群岛作为我国领土的地位。

此外,中国对根据旧金山和平条约第三条,交由美国管治的区域内包括尖阁群岛在内此一事实,从未提出过任何异议,这就表明中国显然并没有把该群岛视作台湾的一部份。中华人民共和国政府也好,中华民国政府也好,都是到了一九七零年下半年,开发东中国海大陆架石油的动向表面化之后,才首次提出尖阁群岛的领有权问题。

而且, 中华人民共和国政府及中华民国政府曾经举出过的,作为各类所谓历史上、地理上、地质上的证据等各项论据,都不能够足以成为在国际法上证实中国对尖阁群岛领有权的有效论据。”

日本政府明确声明拥有尖阁群岛的主权、将钓鱼岛列为美国军事保护对象。

2005年2月9日,日本政府宣布接管由日本政治团体于1978年在钓鱼岛上设立的灯台。并已将该灯台明确记载在由日本政府制作的日本海图上、出版发行。

[编辑]  美国
因为美国曾经在第二次世界大战中将此岛作为日本冲绳县的一部分而占领,之后《美日安保条约》也包括了此岛。美国国务院发言人Pete McCloskey于1970年9月10日被问及美国对于尖阁诸岛立场,而做了以下答复[8]:

“根据对日和平条约第三条,美国对于南西诸岛(Nansei Shoto)拥有施政权。该条约中的这段文字所指的,是所有北纬29度线以南、在二次大战末期归日本管辖、而该条约中并无特别注记的所有岛屿。该条约中的这段文字,乃意指包括尖阁诸岛(intended to include the Senkaku Islands)。根据该条约,美国政府以琉球群岛之一部份而拥有对尖阁诸岛的施政权,但认为琉球之潜在主权属于日本。根据尼克森总统与佐藤总理1969年11月所达成之协议,琉球列岛之施政权将于1972年归还于日本。”当被问及“如果尖阁诸岛发生主权争议时,美国的立场”时,回答:“为表示尊重所有关于主权的诉求,吾等认为此事应由当事国共同协议(With respect to any conflicting claims, we consider that this would be a matter for resolution by the parties concerned)”

美国长期的立场是在此争议中采取中立立场。2004年3月24日,美国务院发言人埃里利在指出该群岛自1972年后根据琉球归还条约将钓鱼岛的治权移交日本政府。由于1960年签署的美日安保条约包括日本行政控制之所有区域,所以美日安保条约覆盖及于钓鱼岛。美国认识到关于钓鱼岛的“主权归属”存在争议,因此通过国务院仅发言表明该岛为“日本施政下的领域”(administrative territory),现在美国一直保持谨慎避免自身陷入对此岛主权的争执当中。
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  • ssTory 金币 +20 资料分 2010-9-9 11:06

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忘了是哪位大人说的了:“搁置争议共同开发,问题留给子孙们解决而去吧。”可是我说:“领土主权不是菜市场上的商品可以讨价还价,捍卫主权寸土不让,第二次抗日战争从撞船开始正是在民间开始了,用不同的任何的方式,哪怕是在网上说几句X你妈小日本。“

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东海、钓鱼岛这片海域,我相信台湾、中国韩国,谁会怕日本呀,怕的是他背后的那个美国,总说日本军费高海军装备好,可是看看他自卫队总人数才26万,也就相当于我们一个集团军,所有的指挥权都在美国,所以国家不强硬不是顾及日本是顾及美国

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